鰻料理で「酒の肴になる」と言われて思い浮かぶのは、「肝焼き」「う巻き」「うざく」などであるが、非常にレアなケースとして「鰻の刺身」「鰻のあらい」がある。蒲焼からは想像できないほどに淡白で筋肉質、コリコリとした食感。「これが鰻か?」となることは間違いない。
はたして鰻の刺身を味わった経験がある人はどれくらいいるのだろうか。この幻の味の正体と、東京近郊で実際に「鰻の刺身」「鰻のあらい」を堪能できる名店を紹介する。

鰻のお刺身にめったにお目にかかれない理由は、鰻の血液には毒があるからだ。
「イクチオヘモトキシン」という毒で、加熱をすれば毒は消えるので蒲焼を食べるには全く問題がないのだが、生で食べるにはいささか問題がある。そのため、生食をするには血抜きなどの下処理が必要なのだ。全身から血を抜いて冷水で処理するのは職人技であるが、この手間暇は相当だ。さらには、薄造りにするため、包丁さばきや和食懐石のような盛り付けも必要となる。
つまり、一皿一皿に手間と技術がいるということだ。さらには下処理や在庫管理を考えれば商売としては割に合わない。そんな酔狂なことをする商売人はいない。
そんな面倒な逸品を提供しているのは、こだわりのお店以外のなにものでもない。だから肴として価値がある。
かくいう私も初めての体験はたまたまだった。
2018年、九州の唐津をぶらりと旅をしていた時、「うなぎ刺身」というのぼりを掲げたお店を発見した。気のいい大将が切り盛りするお店だったのだが、さっそく「鰻の刺身」「鰻の握り寿司」と唐津のお酒で一献させてもらった。(お店の名前は「はま蔵」。このときの体験はこちらのコラム「鰻の刺身、鰻の握り」を参照。)
このときの衝撃が忘れられず、東京近郊でも提供する店を探し歩いた。
さあ、鰻の刺身とはどのようなものか。
薄造りで1枚ずつ綺麗に盛り付けられた鰻の刺身はまさに芸術。まずはこの時点で職人さんの気持ちや愛情が込められていることを実感できる。薄造りといえばフグを思い浮かべるが、フグの薄造りの見た目にも決して負けない。
この薄造りには理由がある。それは食べてみるとわかるのだが、食感に関しては独自のコリッとした弾力があり、歯ごたえもある。川を遡上し、山の中をくねくねと登っていくためにつくられた筋肉が、他に類を見ない食感になっている。この食感を感じるためには薄造りが必要になるのだ。
そして、お味はといえば、最初は驚くほど潔く淡白。しかし、強い弾力に抗って何度も噛み締めていると、川魚の上品な甘さが舌の根元で感じられる。そう、鰻は筋肉質な白身魚なのだ。養殖とはいえ、生食には野性味を感じる。
薬味はポン酢ともみじおろし。
最初はポン酢のみでいただくのがポイントだ。ポン酢の柑橘の酸味が、筋肉質な身に潜んでいる旨味の輪郭を際立たせる。次にもみじおろしを溶いたポン酢で。ピリッとした刺激がアクセントになって、口の中にうまみが広がる。
ただし、ほのかな甘味を感じるために、ポン酢・もみじおろしの付け過ぎには注意だ。ほんの少しでいい。そうすることで、蒲焼からは想像もできない鰻の味に思わず笑みがこぼれるだろう。このギャップを楽しむのも鰻の刺身の醍醐味といえる。
そしてお酒だが、鰻の刺身が繊細で淡白なため、合わせるべきは、香りを抑えた『透明感のある綺麗な純米酒』一択だ。
華やかな吟醸香のある大吟醸やフルーティなお酒は完全に邪魔になる。淡い味わいの純米酒を同調させることで刺身の味を引き立て、キレの良さがポン酢の後味を潔く抑える。いわば鰻自身の味を引き立たせる主従関係をつくるといい。
銘柄でいうならば、喜久酔、高千代、越乃景虎あたりがよいだろう。
もしくは、貴重な肴に出会えた特別感や職人に最高の感謝を込めるならば、いっそのこと石田屋、二左衛門へ振り切って特別感満載な体験にしてしまうのも一興だ。このお酒は高級酒であるものの自己主張は強くなく、上品な執事のように主役を引き立ててくれる。それくらいの価値がこの一皿にはある。
是非とも鰻の刺身を食べてもらいたいところだが、実食できるお店は少ない。
ここでは手軽に入れる上松(品川区旗の台)、満寿家(さいたま市浦和)を紹介する。
上松は、池上線と大井町線が交わる旗の台にある。
職人さんは日本食で修行していたらしく、丁寧な仕事っぷりで薄造りの包丁さばきが絶品。そして、お皿、薬味も調和した盛り付けはまさに和食の芸術。食べる前から感嘆させられる。お刺身以外にもこだわりの肴が多数あるので、ぜひ訪れてみてほしい。
これらの和食の技が光る上松の「芸術的な薄造り」と、至高の肴・うな重体験については、こちらの探訪記(旗の台 うなぎ上松)で解説している。
満寿家は、鰻激戦区の浦和にある。
創業明治21年の老舗で懐石料理も提供している大きなお店なのだが、ここでは「鰻のあらい」として提供されている。そのため、氷の上に並べられて冷涼感があり、コリッと感が増している。また、合わせるのも酢味噌とわさび醤油。鯉のあらいのような食べ方である。
老舗ならではの氷で締めた涼やかな『あらい』のビジュアルは必見。浦和の名店での体験は、満寿家探訪記へ。
いずれのお店も、いつも提供しているとは限らない。行く前には予約をお勧めする。
こだわりを持った料理を提供しているだけに、蒲焼が美味しいのは言うまでもない。最後の締めは鰻重にしてもらいたい。