関東風うなぎはなぜ「背開きで蒸す」のか|江戸おろしと料亭文化から読み解く歴史

「関東は背開きで蒸す、関西は腹開きで地焼き」。鰻好きなら一度は耳にした説明であり、東京では関西風の地焼きの人気も上がっている。その違いの由来として必ず登場するのが、「武士は切腹を嫌うから背開き、商人は腹を割って話すから腹開き」という話だ。聞けば「ほぅ〜」と感心する人が必ずいる。

結論から言うと、この説明は鰻のさばき方の理由にはならない。関東風うなぎが「背開きで蒸す」ようになったのは、日本橋魚河岸の流通が生んだ「江戸おろし」と、明治期に料亭料理へ格上げされた歴史の結果だと私は考えている。文献と浮世絵をたどりながら、その筋道を整理してみたい。

「武士の切腹嫌い」で魚のさばき方が決まるわけがない

確かに「切腹を嫌う武家」と「腹を割って話す商人」という対立軸は、キャッチーで納得しやすい物語である。誰かがうまいことを言ったものだと感心すらしてしまう。しかし、武家文化と商人文化という精神論で魚のさばき方が決まるはずがない。現に関東には、腹開きにする魚がいくらでもある。

さらに文献を追っていくと、「関東=背開き・蒸し」「関西=腹開き・地焼き」という形に分かれたのは、関東風のうなぎが明治頃に「蒸す」工程を加えて今の形になった、という経緯が見えてくる。つまり、切腹の話が入り込む余地はない。

ちなみに、武士にとって背中を切られるのは、逃げた証拠であり恥だった。背中を切られることを嫌う武士が背開きを選んだというなら、辻褄が合わない。つまり、この説は切腹を嫌う側からも、背中の傷を恥とする側からも成り立たない。

とはいえ、この話を最初に聞いた時は、私も「へぇ〜、そうなのか」と日本食文化の深さに感銘を受けたわけである。

(おさらい)関東風と関西風の調理方法の違い

本題に入る前に、両者の違いを整理しておこう。

調理要素 関東風(江戸前) 関西風(上方)
捌き方 背開き 腹開き
頭(兜)の処理 さばく段階で切り落とす 頭を付けたまま焼き上げる
串の種類・打ち方 短い平竹串。身を切り分けて複数本打つ 長い角金串。1尾を長いまま、あるいは数尾並べて通す
加熱工程 白焼き → 蒸し → タレ焼き(本焼き) 蒸さずに生から直火で焼き続ける「地焼き」
仕上がりの質感 蒸しにより余分な脂が抜け、身・皮ともに極めて柔らかい 脂の旨味が凝縮され、皮はパリッと香ばしく身は弾力がある
タレの傾向 濃口醤油と味醂を主軸とし、甘辛の調和とすっきりしたキレを重視 諸白酒(清酒)やたまり・濃口を用い、甘みが強く濃厚

これらの違いがどのように生じたのかを、文献から推察していく。

文献でたどる蒲焼進化の200年|丸焼きから蒸籠蒸しへ

屋台のファストフードから料亭の「うな重」への軌跡

まず、変遷をざっと年表にしておく。

  • 室町時代末期:鰻を丸ごとあぶってから切っていた
  • 1700年頃(元禄期):今の蒲焼に近い形状になった
  • 1730年頃(享保期):「江戸前」がブランドとして成立した
  • 1800年頃(寛政〜文化期):ご飯とともに食べるようになった
  • 1830年頃(天保期):ご飯の上で蒸らす手法が現れた
  • 1868年(明治元年):「うな重」という献立名が定着していた
  • 1900年頃(明治後期):せいろで蒸す工程が確立した

史実を裏付ける文献と浮世絵の記録

上記を裏付ける記録を時系列で紹介する。少々細かくなるので、結論を急ぐ方は次の見出しまで飛ばしていただいて構わない。

  • 室町時代末期『大草家料理書』:鰻を割かずに丸ごと炭火で焙り、焼き上がってから筒切りにして、酒と醤油を合わせたタレや山椒味噌で食べる簡素なものだった。
  • 1643年(寛永20年)『料理物語』:江戸初期の料理書。「かばやき」の名は挙がるが、調理法は記されていない。
  • 1700年(元禄13年)『好色産毛』:京都四条河原の夕涼みの絵に「うなぎさきうり」の行灯が描かれており、元禄期にはすでに鰻を割いて売る手法が始まっていたことがわかる。
  • 1712年(正徳2年)『和漢三才図会』:日本初の絵入り百科事典。「カバヤキ」に「馥焼」の字を当て、鰻を開いて内臓を除き、切り身にして串刺しにし、醤油や味噌で炙る調理法を解説している。
  • 1735年(享保20年)『続江戸砂子』:深川周辺で捕れた鰻が評判を呼び、八幡門前の辻売りで人気を博していた様子を記録している。江戸前ブランドが形成されつつあったことを示す。
  • 1798年(寛政10年)『損者三友』:相撲観戦に、小重へ飯と蒲焼を交互に詰めた携帯食を持参した記録。鰻飯がすでに存在していた。
  • 1805〜1806年(文化2〜3年)『職人尽絵詞』:「江戸前大蒲焼」の看板を掲げる鰻屋を描く。他所の「旅うなぎ」を使わず江戸前のみを使うこだわりがあり、江戸前の格の高さがうかがえる。
  • 1828年(文政11年)『遊歴雑記』:白焼き後の温かい鰻を重箱状の容器に入れて密閉し、重石をして、余熱で「蒸らし」て身を柔らかくしていた江戸後期の仕込み技法を記録している。
  • 1830〜1844年(天保年間)歌川国芳「沢村訥升扮する鰻屋」:まな板の上に開かれた鰻は、青い背の部分が内側(上向き)に描かれている。構造上は腹開きの状態を示唆する。著作権の都合上、外部サイトをご覧ください:https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no256.html
  • 歌川国芳「江戸前大蒲焼(団扇絵)」:鰻を裂く女性の手元を見ると、包丁は背側から刺し込まれている。江戸ですでに背開きの技法があったことを裏付ける。※著作権の都合上、外部サイトをご覧ください:https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no280.html
  • 1831〜1853年(天保初頭〜嘉永6年)『守貞謾稿』:幕末の風俗百科。鰻の調理法の項には「京坂は背より裂きて」「江戸は腹より裂きて」とあり、現代とは真逆に読める。ところが同書の「鰻蒲焼売り(辻売り)」の項では、「京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背をさくなり」と現行の様式に合う記述になっている。同じ書物の中で食い違っている。
  • 1868年(明治元年)『歳盛記』:明治初年の時点で、「うな重」という献立名が社会的に定着していたことを示す風俗案内書。
  • 1903〜1904年(明治36〜37年)『食道楽』:白焼き後に「蒸籠(せいろ)」で蒸す工程が明記されている。本格的な蒸籠蒸しの蒲焼が定着したことを示す最も早い部類の記録。

こうして時代順に追うと、江戸初期には定まっていなかった蒲焼が、江戸後期には江戸前ブランドを冠し、「重箱での蒸らし」を経て、明治初期に「せいろで蒸す」形へ進んだことがわかる。また、出前の利便性から、割れやすい陶器ではなく重ねやすいお重が使われ始めたことも読み取れる。

さばき方については、浮世絵や『守貞謾稿』の記述が食い違っている。江戸後期の段階では、背開きと腹開きは混在していたのだろう。また、鰻は地場で獲れるため、同じサイズが安定して揃うわけではない。この時代に今のような短冊切りで整えていたとは考えにくい。

ただ、ここまでの文献からは、「なぜ江戸前は背開きが主流になったのか」という問いへの答えが出てこない。

単に「身を柔らかく蒸して重箱に敷き詰める」ことが目的なら、包丁の入れやすい腹開きでもよかったはずだ。「蒸したときに崩れにくいから背開きにした」という説明も、一理ある。しかし私は、因果関係は逆だと考えている。蒸すために背開きにしたのではなく、背開きがすでに江戸の魚のさばき方の基本だったからこそ、後に蒸し工程が成立したのである。その答えは調理場の中ではなく、当時の魚がどのように運ばれ、取引されていたかという、日本橋魚河岸の流通の中にある。

なぜ背開きだったのか|日本橋魚河岸が生んだ「江戸おろし」

江戸おろしとは

江戸おろしとは、魚を「頭を右、尾を左、手前に背、向こう側に腹」と据え、右の頭のつけ根から左へ向かって、背側から包丁を入れておろす関東の技法である。近茶流宗家の柳原一成氏は、天ぷらのキスや穴子と並べて、「鰻も関東は背からおろしている」と指摘している(出典は文末に記す)。最も肉厚な肩口から骨に沿って身を外していくため、身割れを防ぎやすいのも利点だ。

江戸おろしはなぜ出来上がったのか

江戸料理を伝える懐石料理の近茶流宗家、柳原一成氏によれば、江戸おろしの起点は、江戸初期に日本橋にできた魚河岸にある。氏は当時の人物として大久保忠教(一心太助の映画に登場する大久保彦左衛門)の名を挙げている。ただしこの人物との結びつきは、講演で語られた伝承の域を出ない。

当時は氷もなく、魚はすべて人力で運ばれた。内臓に近い下側の身は傷みやすい。そこで魚の向きを一方に揃え、「上身」を尊重することにした。向きがあっちにもこっちにも不揃いでは、両方の魚が駄目になってしまうからだ。氏は、輸送中になるべく魚が傷まないよう考案されたのだろう、と推量している。

この名残は、今の河岸にも残っているという。鮪は下身のほうが上身より安く、それは押された身だからである。鮎は頭を左、腹を手前にして箱に並べる。鯛のような祝儀の魚も頭左・腹手前で、姿焼きの際に表身へ手鉤の傷をつけないのも、日本橋河岸以来の決まりごとだそうだ。

そして、向きが決まればおろし方も決まる。頭を右、上身を上にして据えると、手前に来るのは必ず背である。頭に近い背、つまり肩の部分から身を剥がしていく形になる。腹側から包丁を入れようとすると、肛門や尻のほうからおろし始めることになってしまう。柳原氏の言葉を借りれば、これが背開きの理由であり、背側からおろし、腹側からはおろさないという決まりは、日本橋の魚河岸で作られたのである。

上方のさばきはなぜ腹開きなのか

対する上方には、内陸都市ならではの物流事情があった。海から遠い京都へ若狭湾や明石から魚を運ぶ際は、腐敗を防ぐために、水揚げ現場の浜で内臓やエラを取り除いて塩を施すことが必須だった。料理人が魚に向き合う時点で、すでに腹は開かれ、内臓は抜かれている。そうなると、開口部である腹腔から包丁を進める「腹おろし」が、自然な標準手順として定着する。

一方の江戸は、江戸前の海から内臓付きの丸魚が当日のうちに直送された。未処理の魚を傷つけず、超高速でさばくには、背開きが都合がよかったということだ。これは一般的な魚の話なので、生きたまま流通している鰻には合致しないかもしれないが、江戸の調理法として背開きが土台であったことに疑念はない。

柳原氏によれば、かつては、どこで修行した料理人かをおろし方で見分けられたという。腹側からおろす人は関西仕込み、背側からおろす人は向島や柳橋で修行した江戸おろしの人である。今はおろし方の統一性が薄れ、修行の筋は見えにくくなっているらしい。

天ぷら・鮨・鰻|江戸の三大料理に共通する「背開きの必然」

背開きは鰻だけの話ではない。

江戸前天ぷらの鱚(キス)、目鯒(メゴチ)、ハゼ、銀宝(ギンポ)なども背開きである。背開きにすると、油の中で身が丸まるのを抑えられ、尾びれが上に美しく立ち上がり、均一に火が通る。江戸前鮨の穴子(煮穴子)も同様で、背開きにして外縁に厚みを持たせることで、煮炊きや蒸しによる皮目の収縮や身崩れを防げる。

江戸の屋台料理だった鰻、天ぷら、鮨が、いずれも同じ時期に高級料理へ格上げされ、工程が洗練されていった。これは偶然とは思えない。背開きは江戸の食文化全体に通じる、共通の下地だったのである。

なぜ蒸すのか|「ご飯の上での蒸らし」から「均一な蒸らし」へ

料亭料理への昇華と「せいろ蒸し」の導入

明治初期になると、江戸前ブランドを背景に、料亭で供される鰻は格の高い料理へと昇華していく。それに合わせて、調理方法も変わったと考えられる。屋台や出前の時代は、ご飯の上や重箱の中での蒸らしで柔らかくしていた。料亭では、客に均一な柔らかさを提供しなければならない。その工程として、「せいろを使った蒸し」が独立して加わったのだろう。この一手間こそが、大衆食を高級和食へと引き上げる決定打となった。

背開きだからこそ「蒸しても崩れない」

この蒸し工程において、背開きは大変都合がよかった。蒸気をたっぷり吸った鰻の身は、崩れやすい。もしこれが腹開きであったなら、身の外側(縁)が薄い腹肉になるため、蒸し器からの出し入れや本焼きのタレ返しの際に、外側からボロボロと身が崩れ落ちてしまう。それが、背開きにして串を打つと、外側が厚い身になる。そのため、蒸したときに外側からボロボロと身崩れすることがない。江戸おろしの背開きは、蒸しの工程においても理にかなっていたのである。

重箱の空白を埋め尽くす「半身切り」の美学

料亭料理は見栄えも大切で、品格を保たなければならない。重箱はもともと、出前の際に割れないように使われていたものだ。しかし料亭料理を丼で出しては示しがつかず、重箱での提供になったのだろう。

ところが、重箱に従来どおりの切り身を並べると、空白ができてしまう。スカスカでは見栄えが貧相になる。そこで、重箱を鰻で覆い尽くすために、胴体を2分割した大判の「半身切り」が生まれたのではないか。

これが、現代の関東風うな重ができあがった経緯であると、私は推察している。

まとめ|「関東=背開き・蒸し」は江戸前の誇りが料亭料理に昇華した結果

整理すると、次のようになる。

  • 明治初期に、江戸前ブランドの誇りから料亭料理へ昇華し、その過程で調理工程が整えられた。
  • 背開きは、江戸の魚の流通に由来する「江戸おろし」が土台にある。
  • 屋台・出前料理を料亭料理へ昇華させる際に、ご飯の上での蒸らしが、均一な柔らかさを出すための工程としての「蒸し」になった。背開きの鰻は崩れにくく、蒸しに向いていた。
  • 料亭料理としての見栄えを考え、お重を鰻で覆い尽くす半身切りになった。

こうして江戸の鰻は、蒸し、背開き(江戸おろし)、お重、半身切りという形になったのだろう。切腹を嫌う武家文化とは、ほど遠い理由である。とはいえ、武家と商人の対立構図は、受け入れやすいよくできたストーリーとして秀逸であり、その点には感心するばかりだ。

余談|同じ時期に生まれたもう一つの鰻料理「ひつまぶし」

最後に余談を一つ。江戸でお重が使われ始めたのと同じ頃、名古屋でもよく似た悩みが生じていた。

ひつまぶしの元祖を名乗る名古屋・熱田の「あつた蓬莱軒」の公式サイトによれば、同店は明治6年、東海道の宮宿(熱田)で料亭として創業した。当時の熱田は『東海道中膝栗毛』にも記されたとおり、蒲焼(鰻)とかしわ(鶏)が名物で、出前の注文がとにかく多かった。ところが、出前持ちが空の丼を回収するたびに、割ってしまうことがしばしばあった。これを憂慮した二代目店主の甚三郎が、女中頭のお梅と相談して考案したのが、割れにくい木製の器、つまりおひつだという。数人前の鰻丼を、ひとつの大きなおひつにまとめて届けるようにしたのである。

ところが今度は、鰻ばかりが先に食べられて、ご飯が残ってしまうようになった。そこで鰻を細かく刻み、あらかじめご飯と混ぜ合わせて出したところ、これが大変な好評を博し、やがて会席料理の〆の一品にもなっていった。大きなおひつで鰻とご飯を混ぜる、すなわち「まぶす」。これが「ひつまぶし」の名の由来とされる。

出前で器が割れるという同じ課題に、江戸は重ねやすいお重、名古屋は割れにくい木のおひつと、別の答えを出した。しかもひつまぶしは、庶民の丼物と思われがちだが、発祥は料亭であり、会席の〆である。ここにも、江戸の鰻が料亭料理へ昇華した流れと重なるものがある。(以上は元祖を名乗る店自身の説明であり、成立の経緯には諸説あるとされる。)

関東風について述べたが、関西風の鰻も、ひとくちに「地焼き」といっても地域によって姿は違う。ぜひ地焼きを知って、楽しんでもらいたい。

 

出典:
柳原一成(近茶流宗家)「江戸料理事情」、キッコーマン国際食文化研究センター『FOOD CULTURE No.11』
https://www.kikkoman.com/jp/kiifc/publication/foodculture/no11_edo.html
あつた蓬莱軒「歴史と歩み」
https://www.houraiken.com/history.html

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